円山川沿いの県道104号右岸道路から千石橋の交差点を北東へ、真っ直ぐに伸びる道の先にある兵庫県養父市大薮(おおやぶ)。
同市の地名のルーツの一つといわれ、100基を超える古墳を有し、江戸時代には侍が住んでいたという歴史を持つまちです。
―歴史あるまちを歩く
大薮地域は扇状地(せんじょうち)というすぐ側の山から流れ出た水や土砂が年月を経て平たく堆積してできた平らな土地に形成されています。
集落の中心には「大薮川」という川が流れ、この川沿いを中心に外へ外へと家屋を建てながら発展してきました。
扇が広がったような形をしている土地にはいくつもの細い路地が入り組み、まるで迷路のような場所です。
昭和前期にはコウノトリの生息地として有名だった歴史を持ち、住宅の壁には左官職人が腕ふるったこて絵があります。
コウノトリが羽根を広げて飛ぶ姿が描かれたこて絵は、珍しいのでぜひ見つけてくださいね。
さらに散策していると壁に柱が塗り込められた大壁や、抜気(ばっき)と呼ばれる越屋根(こしやね)※1など養蚕農家の特徴を持った民家、袖うだつ※2など趣のある家屋が立ち並んでおり、昔からこの土地で人が暮らしていたことがわかります。
「大薮」に多くの人が集まっていたということがわかる痕跡は、民家以外にもあります。
それがこの土地に残る100基を超える古墳群と江戸時代の旗本小出家ゆかりの地の数々です。
一体どのようなものなのでしょうか。
(※1)越屋根とは… 抜気(ばっき)と呼ばれる換気・採光の役割がついた屋根のこと。
(※2)袖うだつとは…民家の2階の屋根の軒下に逆さまに設置されている壁のこと。お金がかかるので、比較的裕福な家でないと設置ができない代物。
―大薮にある古墳群とは
大薮にある古墳の数は約150基ほどといわれており”古墳群のまち”として知られています。
たくさんの古墳があるのは、古墳時代に大薮を含む養父地域に但馬最大の政治権力があったとされているためと言われています。
昭和61年に「禁裡塚(きんりづか)古墳、2年後の昭和63年には「塚山古墳・西ノ岡古墳・こうもり塚古墳」の大型古墳4基が県の指定文化財として指定されています。
特に同4基の古墳のうち「禁裡塚古墳」は北近畿地域で最大規模の横穴式石室※3を持つ古墳とされ、歴史ファンの間では奈良にある石舞台古墳※4(いしぶたいこふん)と同じくらい価値があると評価されるほど。
同古墳の玄室にはベンガラという顔料が塗られています。
土の中に含まれる酸化物を主成分とした顔料のため石が赤っぽく見えるのが特徴です。
「禁裡塚古墳」を過ぎ、まち中を散策しているとこんもりとした林の中に「こうもり塚古墳」を見ることができます。
こちらの古墳は天井石の上に小さな祠が存在する特殊な古墳です。同古墳は「塚山古墳」のすぐ下に位置することから、二つの古墳に埋葬された人物は親子のような関係性があったのではないかと考えられています。
(※3)横穴式石室とは…古墳時代後期に主流となった死人が埋葬されている空間(石室)のこと。
(※4)石舞台古墳(いしぶたいこふん)とは…奈良にある日本最大級の横穴式石室を持つ古墳のこと。
―侍のまちといわれる由縁について
古代から民がいたと伺える大薮は、江戸時代になると侍のまちへと変化します。
第5代出石藩主の小出吉重(よししげ)が兄弟に複数の土地を分け与え”旗本”とし、その”旗本”の1人がこの地に陣屋を構えたたことがきっかけでした。
ここで登場する”旗本”とは将軍に仕え、将軍と会うことが可能だった地位の高い家臣のこと、”陣屋”とは大名領の藩庁が置かれた市役所のような場所のことです。
大薮地域に建てられた陣屋は、初めからこの土地に存在していたわけではなく養父市の大塚にあり、その陣屋が火災を受けたことを機に移転し作られた建物です。
侍は移転した陣屋と大薮の土地の管理、警備をするためにこの地域に住むようになったと考えられています。
同施設は現在では大薮公民館の北側の一角で民家や畑となり跡地になっていますが、その規模は東西約80メートル、南北約150メートルほどだったと推測されています。
―小出家ゆかりの場所
旗本小出家にゆかりのある場所は他にもあります。
それが陣屋跡地を過ぎ、山裾に向かっていくと見える「泉光寺」です。
このお寺を作った殿様である第2代当主・小出英輝のをはじめとする小出家やその家臣のお墓がある菩提寺です。
大薮の集落が一望できる場所に位置し、本堂まで続くゆるやかな階段の道には英輝夫人の菩提寺であったという妙法寺のお堂。
島根から旧養父郡にあった八鹿村へ石州瓦の職人を招き作られた八鹿瓦使用の地蔵堂、まちの暮らしに関わる事務仕事を行う代官を務めた大島家・森島家の墓所を巡ることができます。
階段を上り切ると出迎えてくれる立派な鐘楼門(しょうろうもん)をはじめ境内の円通堂、水難除けの神様祀られた水天宮の3つは令和2年に県登録文化材として登録されています。
―「泉光寺」にある珍しい石碑と大薮の関係
「泉光寺」の境内にはコウノトリの姿が浮き彫りされた珍しい石碑「こうのとりの碑」もあります。
石碑の表面には「相奈禮て三日千寿の別か那(あいなれて みっかちとせの わかれかな)という俳句が刻まれており、傷ついたコウノトリが大薮にやってきたので看病したが、3日目に死んでしまったという意味合いがあるそうです。
コウノトリというと県内では豊岡市が有名ですが、養父にも生息していたこと、看病をするほど親しみがあったことが伺える石碑になっています。
大薮の「藪」という文字を辞書で引くと「多くのものごとが集まるところ」とのこと。※T2裏路地参照
集落の中で様々な歴史を重ねてき同地域は、古墳群、出石藩との関わり、コウノトリの存在といった古くから人やものが集まる中心的な土地であったことがうなずけるまちです。
「どの路地を巡って行こうか」そんな旅人の好奇心をかきたてる大薮を、ぜひ思い思いに巡ってみてくだいね。
地域に残る古墳に近づく際はヒルにお気をつけください。
また、団体見学される場合は養父市の歴史文化財課まで。数人での見学の場合は不審者と見間違われないよう地元の方にお会いしたら「古墳を見に来ました」と挨拶とお声がけをお願いします。
※鹿の防獣柵があるので、
LINK UP 古墳群と侍のまち養父市大薮
■養父市教育委員会社会教育課 歴史文化財課 [所]兵庫県養父市広谷250-1 [TEL]079-664-1628 |