これは円山川がその昔、「暴れ川」といわれていた頃のお話で、若宮さんという村のお宮についての伝説をもとにした物語です。豊岡市赤石の集落では、田んぼが川の水位よりも低い位置にありました。土地は常に湿地帯のようで、そこから河口までは気水域のため、毎年夏期になるとその水が逆流し村の稲作が塩水に浸かって駄目になるという塩害が多発していました。
今年も、天を仰いで毎日雨を待ち望んでいましたが、二十日以上も雨が降らず、また潮が上がってくる心配が出ていました。その頃、このあたりに粗末な家を建てて住んでいるひとりの浪人がいました。
江戸から来たらしいという事でしたが、この人が以前江戸でどんな暮らしをしていたのか、また、どんな訳があってこの土地に来て住むようになったのか、誰一人知っている者はいませんでした。
しかしその身についていた言葉付や身のこなしには品があり、村人の誰に対しても丁寧な応待のうえ子どもたちにも優しいものでした。次第に子どもたちが遊びに行くようになり、浪人は村人たちとも親しくなっていきました。
そして、子どもたちには簡単な読み書きやそろばんを教え、村人たちの手紙や役所へ出す届けなどを代わって書いていました。村人たちはそのお礼として米や野菜、川でとれた魚などを分け与えました。
この浪人も、毎日川の水の減り具合を見ては自分の事のように胸を痛めていました。
―浪人の助言
「金は要るが、堤防ができれば来年からは米がとれる。そうなれば暮らしは少しずつ楽になるはずだ」と浪人は村人たちに言いました。言葉には真実がこもっていましたが、目の前のくらしに追われる村人には、大きな立場で物事を考えるゆとりはありませんでした。
その話があってからも日照りは続き、とうとう恐れていた潮が上がりました。田んぼは青々とした色を失い、せっかく出始めた穂もよく伸びた葉も白一色に変わってしまいました。
「こんな事を繰り返しておれば、孫子の代まで暮らしはようならん。あの浪人の言う事を聞いた方がええかもしれん」と村人の寄り合いが持たれ、潮垣をつくる相談の機会が設けられました。
しかし費用は莫大です。そこで浪人は一策考え、「江戸にいる兄に頼んでお金を送ってもらう」と言って皆を安心させて、やがて村全体で潮垣を作り始めました。
雪がちらちらする頃まで力を合わせて働きましたが、2年もの不作続きで暮らしは大変でした。畑に植えた小豆や豆や野菜、それに葛、カラムシ、カラスウリ、ヒユなど、木の葉の根に至るまで食べられる物はなんでもとってもまわり、しまいには松の木の皮も煮て食いつなぎました。
―金がこう
野の山もすっぽり雪におおわれた頃には、この潮垣は大方できあがっていました。長い冬が過ぎて、春が訪れて工事は終わり、村人より支払いを問われると浪人は丘に上がって村を眺めながら、「もうすぐ金がこう(来る)」と言い続けます。
日を改め、村のおもだった者が相変わらず山の上から川の方を眺めている浪人のところへ押しかけました。その人たちが、費用のことについてくどくどと言うのを聞いた後、浪人は「それでは一刻程したら家に来てください。兄からの手紙を見せましょう」と静かに言い放ちました。
その落ち着いた様子を見て、村の人達は安心して帰りました。一刻の後、人々が誘い合わせて浪人の家を尋ねると、広くもない家の中はすっかり掃き清められ、浪人は髪を洗い着物を着替えて待っていました。
「あなた方に見せるはずの手紙はありません。飛脚で江戸に金を頼んでもいないのです。私はこの村に来て、武士以外の暮らしを知り、人情を味わった。しかし行き詰まってしまう前に私は潮垣をつくらねばならぬと思い立ったのです。どうにか皆の気もちをまとめたい私の一世一代の大嘘でした」。
一息ついた浪人は「武士に二言はありません。けれどもあの場合、あの嘘がなかったら皆の気持ちもまとまらなかったでしょう。しかし、村の人々をあざむいたのは私の罪です。そのために私は命を断ってお詫びします」と言った瞬間、既に腹に小刀を突き立てていました。思いがけない浪人の言葉に呆然としていた村人たちが急いで駆け寄りましたが、間に合いませんでした。その後、潮垣を見ながら泣かない者はいませんでした。次の年の夏も日照りが続きました。しかし、赤石田んぼの稲は塩害を受けることなく青々と茂り、秋には黄金色の穂が波打ち3年ぶりの豊年になりました。

(画像:円山川沿いから少し離れた山の中腹。その奥に竹林に囲まれながら静かに佇む若宮神社)
村の人々はあらためて浪人の恩恵を思い、浪人を村の守り神として若宮神社を建ててお祀りしました。若宮神社は現在も赤石の人々に守られています。
LINK UP 若宮土堤と金がこう
| ■若宮神社 [所]兵庫県豊岡市赤石1861−3 |











