但馬CULTURE VOL.46 小山弥兵衛と心諒尼


朝来市和田山町東河(とが)地区では、祖父を弔う孫娘の孝行物語が語り継がれています。

―壱岐(いき)島への流刑

昔、東河庄野村(朝来市和田山町東河地区)に「小山弥兵衛」という若いながらも人望が厚い男がいました。

1738年、長く続く凶作のため、庄屋たちが訴状を持って生野代官までお願いに行きました。しかしその際農民が鍬や鎌を持って集まったので、一揆としてみなされてしまったのです。その中心にいた弥兵衛は長崎県の壱岐島へ流されてしまいました。

―孫娘の想い

壱岐島にある見性寺に預けられた弥兵衛は、島民の農作業を手伝ったり、子どもたちに読み書きを教えたりするなど、島民から慕われる存在となりました。

一方、弥兵衛の孫娘は祖父に会いたいという気持ちが募ります。僧になれば修行で全国を歩き回り、祖父の所にも行けると考えました。尼僧になるため梁瀬の桐葉庵(現在は桐葉寺)に入り修行を開始、法名を「全鏡(ぜんきょう)」と名乗りました。

―尼となり祖父の元へ

壱岐島までの困難な道のりを進み、ようやく弥兵衛と対面を果たした全鏡。月に数日間だけ博多から壱岐へ渡り祖父の世話をしました。

弥兵衛は、自分の健在であることを国の者に知らせたいと願い、全鏡にクスの苗を3本持たせました。その内の1本は現在、但馬の法宝寺(ほっぽうじ・朝来市和田山町)に残っています。

―現代にも伝わる孝行物語

弥兵衛が亡くなった後は遺骨を携えて帰郷し、円明寺(和田山町宮)から「心諒尼(しんりょうに)」という戒名をもらい、水月庵(現在は水月院)を再興しました。

この史実の縁がきっかけとなり、現在、朝来市と壱岐市は友好都市提携を結んでいます。この朝来市と壱岐市が交流するきっかけとなった孝行物語は、現在も紙芝居が制作されるなど、静かに語り継がれています。

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■但馬の百科事典
(HP)https://tanshin-kikin.jp/

 

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